晩 餐 会

オレのブログって、晩餐の取扱説明書みたいなもんだからな。

随想~新型コロナウイルスの流行に寄せて~

前回の更新からだいぶ日をまたいでしまった。
気付いたら丸一年も更新していなかったらしい。

忙しかったのか、忘れていたのか、あえて書こうとしなかったのか。

本当なら今の時期も激務に晒される予定だったのだが、世間を騒がせている新型コロナウイルスの波は僕の職場にも訪れた。
不意に定時での帰宅を命じられ、まとまった夜の時間が手に入ると戸惑う。
だから今日は、一年ぶりにブログを更新することで、少し自分自身との対話をしたいと思う。


ここ一年は、あえて忙しくいることで何も考えずに走り続けることだけを考えてきた。
石川啄木の「何事も思ふことなく いそがしく 暮らせし一日を忘れじと思ふ」を座右の銘というか、自分なりに生活のテーマにして暮らしてきた。

正直心身共に疲弊した感じがする。
なんというか、職場にいても、家にいても、外出先にいても常に息苦しいのだ。
コロナウイルスの肺炎という意味ではなく、何をしても閉塞感を感じ続ける、そんな、常にムカムカとした思いが胸の内に渦巻いていた。

でも最近思うことがある。
ちょっと前、それこそこのウイルス騒動が始まる前くらいまでは、自分が発狂寸前の状態、首の皮一枚でマトモな人間でいられている非常にキワドイ状態だと思っていた。
しかし世間が狂い始めてくると、自分が全然狂っていない、平常な人間に思えてきた。
自分が狂っていると思い込む、そんなものはただの自己陶酔、狂人を耽美的に語りたいだけの、いい歳こいた中二病のようなものだった。
坂口安吾のように堕落を美学にまで高めるほどの達観もない、子供じみた狂人ごっこ


このブログを書き始めた頃の文章と比較すると、同一人物が書いたと思えないくらい文体が違う。
僕は躁鬱気質なところがあって、書く文章もテンションによるところがあるけれど、ここ一年くらいはずっとテンションが低かったような気がする。
楽しいと思えることや、何かに期待を持ってワクワクするということができなくなったのだ。
それは年齢によるものなのかもしれないし、社会の閉塞感によるかもしれないし、多忙によって神経を擦り減らしている為かもしれない。

別に僕は悲観主義者じゃない。
前向きと言うほどじゃないけれど、物事はなるようにしかならないし、できるだけ良い方向に向かうよう努力はすべきだと思っている。
ネガティブシンキングを制するのはポジティブシンキングなどという虚勢ではなく、ロジカルシンキングだと思っているから。


人を信じられなくなった。
何というか、素直に接することができなくなった。

職場の人は、尊敬はしていても、いずれは辞める会社の同僚の域を超えない。

友人は、ただ酒を煽って過去を美化して語り合い、傷を舐め合うだけの哀しい関係にしか思えなくなった。

恋人はいるにはいたが、愛せなかった。肥大化し過ぎたエゴに支配された僕は「彼女の為」という考えができなかった。

両親と仲は良いものの、あろうことか内心バカにするような心が芽生えてきた。
「そんなことも分からないで生きてきたのか」「またマスメディアに踊らされて」のような、さも自分の方が世知に長けたかのような捉え方で常に会話するようになった。

あれほど外国語を必死に学んで交流しようとしていた外国人を、どこか避けるようになった。
根本的に「合わない」人達だから、付き合うだけ疲れると思い始めたからだ。

誰かを利用しようとか、貶めようとかいう、所謂悪い感情を持つようになったわけではない。
ただただ、所詮は他人、自分とは別の存在、どうやっても理解しあえないという諦めしか抱かなくなった。
だから僕は人の言うことは素直に聞く。
でもそれは素直に心を開く気が全くないからに過ぎない。


何かに期待することができなくなった。

挑戦に対して胸の高鳴りなどはなく、機械的に目標を設定して、淡々とスケジュールをこなし、達成したら次の目標を置く。
結果をありのまま受け止めるので達成できなくても落ち込むことがないのは、ある意味いいことなのかもしれない。

新技術、新しい思想、運動、そういったものには要らぬ心配をすることが多くなった。
例えば自動運転。
高齢者の激増と移動手段の不足、人手不足の解消など考えれば、僕は自動運転の導入は肯定している。
ただ自動運転が(特にこの日本で)受け入れられるまで、乗り越えるべき障害を想うと気が滅入る。
別に僕が滅入る必要もないのだが、この国の雁字搦めの利権や、人権団体などの気色悪い悲鳴を想うとしんどくなってくる。

今まで続けていた趣味は新鮮さを感じなくなり、多くの道具も処分した。
そしてこれから新しい趣味を始めるような予定もないし、始めたいとか探したいとかいう気持ちもない。

何かにすがるというと宗教も思い浮かぶ。
神社の御祈祷、お寺で座禅、教会でミサも参加したことがある。
ただそれらの宗教を信仰しているかと言われたらそうでもない気がする。
なんというか、コレクションなのだ。
多くの宗教・宗派を知っていることが、僕の教養のガラスケースを満たしてくれる、それだけのことなのだ。


高校生の頃、僕は森鴎外の「諦念」という考えが受け入れられなかった。
諦めてどうすんだよと。
叶わないとしても、どうにかしようと頑張ってこその人生だろうと。

ただ今の僕は、鴎外の気持ちが分かるなんて高尚なことは言わないけれど、何となく「諦念」が掴めてきた気がする。
もう何もかも諦めている。

なんとなく寂しくて話し相手が欲しい夜もある。
でも根本的に僕は他人を必要としていないし、一緒にいたところで変に疲れるだけだと気づいた。

新しいことを始めてみたら何かが変わるんじゃないかと淡い期待を抱くこともある。
ただ実際は「こんなもんか」で終わって、何一つ感動を残さないまま、フェーズが終了する。
経験を積んでいるだけでも前に進んではいるのかもしれないけれど。

例えば政府への愚痴、会社への愚痴、言おうと思えばいくらでも言える。
でもそれは結局自己責任。
自分の意志で政府に従い、自分の意志で会社に通っている。
やれることをやりはするけれど、自分の力じゃどうにもならない領域はもう諦めるしかない。
今回のウイルス騒動も、半ば諦めの、早く終息すれば御の字くらいに考えている。
勿論その為に、今の僕にできること(外出自粛と手洗いうがいマスクアルコール消毒くらいだけれど)をする。
それ以上でも以下でもないんだ。


誰かと会えるはずなのに、何かをできるはずなのに、できなくなっていた僕に、世間は「自粛」という形で合わせてきた。
そうなると、狂っていると思っていた自分の基準に世間が合わせてきたようで、相対的に僕は何とも無かったんだという気になる。

ただ、感染の恐怖に怯えながら満員電車に揺られて通勤し、退勤後は寄道せず帰り、週末は外に出ない。
文字通り働く為だけに生きてる。(働くこと自体を否定しているわけではない)
こんな生活を一年、ヘタすりゃもっと繰り返していたら、経済が破綻するのは勿論だが、そもそもみんな狂うと思う。


外出自粛要請のあった先週末、思う所あって断捨離がてら部屋の掃除をした。
するとボロボロの段ボールの中から、学生時代に小説サークルで出版した機関紙が出てきた。
当然僕の書いたこっぱずかしい小説もでてきた。
当時10代だった僕がお花畑のような脳みそをフル回転させて書いた、青臭くて、甘酸っぱくて、それでいて救いようのない、けれど健気な恋愛小説だった。
そこには人の死を扱っているシーンもあった。
(自分で書いた小説なのにどこか他人事なのは、それくらい今の僕の精神が当時の僕とかけ離れてしまったからだろう)

10代の僕がどういうつもりで死の要素を取り入れたのかはわからない。
小さい頃から生と死とか、宿命とか、そういったやや重いものを取り入れた作品が好きだったから、先達に倣っただけなのかもしれない。
ただ、そこには死を受け入れて前に進む主人公達の姿が描かれていた。

そんな過去の自分の作品を見て、現状を鑑みる。

明日には身近な人が発症するかもしれない。
明後日には自分が発症するかもしれない。
明々後日には亡くなる知り合いが出るかもしれない。

志村けんの訃報にショックを受けた日本人はとても多いだろう。
だって信じられないもの。
あのバカ殿様が、流行り病でアッサリ逝ってしまうなんて、想像もつかない。
でも現実はこういうものだった。
死と言うものがいつかは必ず訪れる者と知りながら、その来訪は実は明日だったり、ヘタすりゃ今日これからだったりする。
その恐怖(と言うより現実感のない事実を突きつけられたショック)を、日本だけじゃなく世界中の人々が感じ始めている。


この文章を通して僕が伝えたいメッセージなんてものは特になくて、あくまで随想でしかない。
ただまとめるような内容を書くとしたら、僕も、日本も、世界も、転換期に来ているのだろうと言うこと。
おそらく旧来のやり方では早晩行き詰まる。
それは社会構造であったり、法律であったり、ライフスタイルであったり、宗教や思想だったりするかもしれない。

別にイノベーションを起こすような、爽やかな、澄み渡ったような新時代の訪れなんてものは期待していない。
歴史を振り返っても、泥水を啜る中で、やむを得ず人類や社会は変化してきた。

例えば戦後日本。

ジャパンアズナンバーワンとして20世紀後半に我が世の春を謳歌するまでには、多くの犠牲を払った。戦中に生命は勿論、衣食住、文化、イデオロギー、あらゆるものが破壊しつくされた結果、戦後はひたすら創造し続けるしかなくなった

例えば思春期。
子供から大人になる時期、誰もが青春、即ちポカリスエットのCMのようなみずみずしさを想像するだろう。
でも実際は青春はもっと暗く、ジメジメして、思い出したくもない物事も多い。

ただそれらを乗り越えなければ、より過酷な社会に船出する地力は着かない。


今の僕は変わらなくちゃいけない。
人は一朝一夕に変われるほど簡単にできていないけれど、いつか人を信じ、未来を信じられるようになるには、この時期を乗り越えるしかないという、直観がある。
システム開発の現場でも、過渡期っていうのは一番しんどい。
僕は、そして世界は一つの過渡期にさしかかっている。
そんな気がしてならない。

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